父親の一周忌と初盆を兼ねた法要を田舎でつとめた。
母方の実家が浄土真宗のお寺なので、叔父が丁寧におつとめをあげたくれた。その間慣れぬ正座などをしていたせいか、とりとめもないこと、「一周忌ってなんだっけ?」とぼーっと考えていた。
いや、慣れぬ正座などするものではない……
個人的には「亡き人を偲ぶ家族のためのもの」だと思う。なので家族で集まって思い出話でもしながら飯でも食えればよいかくらいに思うが、親戚にお寺があるせいもあるかもしれないが読経をしてという一般的な形式を家族が望むのでまぁそれもよいかと思う。
でも、なんで読経するんだ?
そこには、「霊」など亡くなった故人の形の見えない主体に対する意識が働いていることは明らかだろう。具体的には、安らかな成仏を願って仏になった故人を供養するために、「お父さん、こちらは大丈夫ですよ、極楽で安らかにいてくださいね」とか願いながら読経をともに上げている人が一般的だろう。
でも、もともと仏教では輪廻転生で六道のなかで生まれ変わりを続けていて、あるのは「識」だけで「霊」のような主体を認めていないのではないだろうか。それに特に浄土真宗では阿弥陀如来が人々を救済すると決めているので、「南無阿弥陀仏」と唱えてれば阿弥陀如来のもとに生まれ変わり、そこで悟りへと導いてくれることになっていたように思う。だから、「仏になった故人」は正しいが、そんな仏様の成仏を願ったり、供養をするっていうのは一体なんだろう?
信者の方はそうでも、僧侶のほうは違う意図があってやってるのかなぁと思ったが、よく聞いていると叔父は読経の他に故人に対することばのようなものもあげてくれている。むーん……
なんて、考えたら足がしびれてきて、家族だけなので失礼してあぐらをかかせてもらった。慣れぬことををするものではないな。
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